私は人間としてはギリ合格しているのではないか。そう思わないと人生とかいう無理ゲーなんて到底やっていられない変態ですどうも。
さて今回は本の感想文を書いてみようと思います。
書評とか言っちゃうとなんかおこがましいので、あくまでも読書感想文です。
子供の夏休みの宿題レベルです、たぶん。
そしてこれは極々個人的なものです。
二PVぐらい行けば満足です。
正直言って読むほどの記事ではないです。(マジで)
なのでいろいろご了承下さい。
それでは、文章の構成とか気にせず一気に書き殴っていきます。
掲題の通り太宰治の『人間失格』です。
私がこの本を初めて読んだのは十代の頃でした。
青春と呼ばれる、人生に於いて最も多感な時期ですね。
私はこれを、中年となった今読み返してみました。
その感想です。
まずは表面的なあらすじをご紹介します。
『自堕落な金持ちのお坊ちゃんが女のヒモになり酒と薬に溺れて廃人になるお話』
以上です。
うん、読んでも楽しい気分にはなれません。
そして感想としては
「厨二病乙」「ナルシスト」「意味不明」「気分悪い」
という感じになります。
これは至極尤もな感想です。
そもそもこれはヤク中の廃人が自己憐憫に浸りながら記した手記ですからね。
何言ってんのか分かんないのが普通です。
でも、この救いの無い哀れな物語から、何かを感じとる人が稀にいるみたいです。
文学という物は多分にナルティシズムを含む物です。
というかそれこそが文学なのです。
あとは好みの問題です。
人間失格は太宰治の自伝だと言われています。
数回にわたる自殺未遂やアルコール及び薬物中毒に陥った経緯などは、ほぼ太宰の人生をなぞって書かれています。
『人間失格』を上梓した太宰は続く『グッド・バイ』を執筆中に入水しました。
坂口安吾も『キリストと不良少年』で言っていましたが、なんという筋でしょう。
人間に失格してこの世からグッドバイですからね、もう。
なお、その時の太宰は相当に泥酔していたのだそうです。
遺書も、体を成さない支離滅裂な殴り書きだったと。
ナルティシズムというものも確かにあったのだと想像します。
しかしながら、私はいつも思っているんですけど、
自殺する人の気持ちは、自殺する人にしか解らない
のではないでしょうか。
太宰は弘前の裕福な家庭に育ちました。
私も金持ちの家庭に生まれたかった。(ただの僻み)
しかし金持ちには金持ちの苦悩という物があるのでしょう。
人間失格に登場する人物の中で葉蔵を苦しめた根源は恐らく父親でしょう。
葉蔵にとってはの父親とは、最も自分を認めてもらいたい存在であり、同時に世の中で最も恐ろしい存在だったのではないでしょうか。
作中で語られる葉蔵の人間恐怖というのは、これは厨二でもナルでもなくて、十分な愛情を受けずに育った人間の陥るひとつの状態であると私は考えています。
愛を受けずに育った人間は、大人になっても愛というのがよく解らない、なんてよく言いますよね。
機能不全家族の中で育てば、大人になっても暖かい家庭のイメージが解らない。
幼児期に十分な安心感(=愛)を与えられずに育った人間もまた、それが解らずに、安心感の対極にあるえもしれぬ恐怖をずっと抱え続けたまま大人になるのでしょう。
生きているだけで苦しいという事は、実際にあります。
それこそ眠っているとき以外は常に苦しい。
そして人は酒を飲むのです。
酔っているその間だけは苦しみを忘れられる。
酒に逃げるというのは、もう一つの選択枝である「死」を避ける為の合理的な方法なのかも知れません。
葉蔵の抱えた恐怖は、同じ物を抱えた人間にしか理解できないものなのでしょう。
人が抱える苦悩にはいろいろありますが、この話ではそういう種類の苦悩なのだと思います。
ここは私、重要なポイントだと思っています。
他の人には全く理解できないけど、当人にとっては自殺を考えるほどの苦悩もあるのです。
図らずも今日という日、9月1日という日に果てしない恐怖心を抱く子供たちが存在します。
「死ぬ程のことか?」「死んだら終わりじゃん」「意味不明」
そう思うでしょう?
でも当人にとってはそれは紛れもなく”死ぬほど”の苦悩だったりするんです。
自殺する人の気持ちは、自殺する人にしか解らない
やはり私はそう思うんです。
葉蔵は誰からも理解されないまま大人になります。
孤独です。
生きている限りは「生きなくてはならない」から、その手段としてのお道化ばかりが上手くなります。
虚しいです。
みんなにお道化た人格を気に入って貰えます。
寂しいです。
次第に女の愛というものに、得られなかった愛情を求めていきます。
物語上の葉蔵青年は美貌とされていますけど、実際の太宰は言うほどではありません。
美貌の青年が背中に寂しさを携え立っていれば、それは女の母性をくすぐる姿なのかも知れません。まあ私には判りませんけど。この辺はたぶん単に文学としての虚構だと思います。
いろいろあって葉蔵は人の情のような物には触れるんですけど、でも根源的な愛情は得られないんですね。
だって京橋のマダムは葉蔵の母親にはなれませんからね。
葉蔵が人生で初めて恋心を抱く描写があります。
その相手は寂しく貧乏くさい女でした。
葉蔵はこの女に自分と似たものを感じて、たぶんですけどこの女なら自分のことを理解してくれるのではないか、と思ったんじゃないでしょうか。
それで一緒に入水するんですが女だけが死ぬんですね。1回目の自殺未遂です。
生き残ってた葉蔵は、まだ死にたいわけじゃない、と思ったんじゃないでしょうか。
まだ心のどこかに一縷の望みを持っていたのだと思います。
絶望しか感じ得なかった自分の人生について、まだ助かる可能性があるのではないかと、そう感じたのではないでしょうか。
その後出版社の子連れの女と一緒に暮らす描写があります。
葉蔵は結局そこからも逃げ出してしまうんですけど、それは幸せそうな母子の姿を見てしまったからです。
その幸せに自分の渇望をあてがい、美しい物を壊してしまうのは気が引けます。
というか壊してしまったらその事自体によって余計に自分を責めてしまいます。
それこそ地獄なんですが、その後まさにそんな地獄に陥ってしまうのですよ葉蔵は。
無垢という美しい存在を、自らの手に因らずとも壊してしまうわけです。
平たく言うと純粋な嫁が姦通により汚されてしまうのです。
本文でも書かれていたように思いますがこの事件はやはり決定的ですね。
この世で本当に唯一と言っていいほどに信じていた物、唯一の救いだった物、それが人間の手によっていとも簡単に壊されてしまったのですから。
現代風に言うと清楚系で売ってた声優が実はクソビッチだった、ぐらいのインパクトでしょうか。
もしくは某・総選挙で投票後、順位確定直後に結婚を発表するアイドルとか。
まあいずれにしてもそんな事されたら人間なんて信じられなくなります。
もはや八方塞がり。
酒も効かなくなる頃、薬に手を出す葉蔵。
同時期に喀血もします。結核ですかね。
この辺で何もかもが解らなくなってきてます、葉蔵さん。
そして薬にドハマりしてヤク中になります。
どうしようもならなくなって、精神病院へ強制的に連れられていきます。
あの下衆な友人だった堀木やヒラメから優しく暖かい視線を浴びます。それをすら受け入れてしまうほどにこの時点での葉蔵は弱っています。
そして、更に、あの恐ろしくも憧れた続けた父親の死を知らされます。
はい、何もかもがどうでもよくなりましたとさ。
葉蔵は、結局最後まで誰にも理解されませんでした。
まあ理解されるわけもないと思いますがね。
酒に逃げざるを得ず、薬の中毒にならざるを得ず、自らの命を絶つに至る程の苦悩など誰に理解できるでしょうか。
そういう意味で、この物語は理解できない方が良いと私は思っています。
別に私は厨二感に浸ってそう言ってるのではないですからね、念のため。
健全・健康に楽しく生きることこそが人生でしょう。
私はそうやって楽しく生きていきたいです。
太宰が最後に綴ったのは、「あとがき」における京橋のマダムの台詞でした。
未来永劫、決定的に、誰からも理解されない。
そんな感じが良く出ている一文だと思います。
それを引用して今回のキジちゃん的夏の読書感想文を終わりにしたいと思います。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
※実は青空文庫で無料で読めます。お暇ならどうぞ。